■    政治犯として処刑されたイエス

 キリスト教概説という大学の講義の中で、聖書は部分的に読んでいましたが、すべてを読んではいなかったので、通読することにしました。

旧約聖書では天地創造から始まり、アダムとイヴの失楽園、ノアの箱舟、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデなどの歩みが延々と書かれてありました。あまりに長いので、何度も眠くなりました。神の選民である主人公たちは、神との契約を守りつつ、御旨みむねを歩むのですが、時に失敗をして、神から罰を受けたりする部分が人間臭くて共感できました。

新約聖書にはイエスとその弟子の歩みが書かれていました。「汝の敵を愛せよ」「求めよさらば与えられん」などの有名な聖句もあり、比較的読みやすい印象でした。イエスは足や目の不自由な人たちを治すなどの奇跡を起こし、信奉者を増やしていったことが分りました。イエスを信奉する人々は日ごとに増加し、大きな社会運動になっていきました。それに危機感を持った政府から、政治犯として十字架に架けられてしまったという流れが理解できました。

イエスにはペテロやパウロ、ヨハネなど十二弟子と言われる側近がいましたが、政府からの弾圧が激しくなると、あれだけイエスを慕っていた弟子たちは、一人残らず去ってしまいました。人間の本性の一部を見たようでした。自分が処刑されることが分った時点で、逃亡することもできたと思いますが、最後まで神の御心みこころを貫いたイエスという人は、立派な人だと思いました。もしもイエスが逃げてしまっていたら、今日のキリスト教はなかったと思います。

旧約聖書では神と人間とは契約という関係であり、新約聖書では信仰という関係であったと理解しました。

■  死は終わりではない

これまでは死んだら終わりと考えていましたが、キリスト教の教えによると、死んでも魂は霊界へ行くとのことでした。イエス・キリストも天国といわれる高次元の霊界へ行かれたとのことでした。

死んでも魂は消滅することなく霊界へ行くという教えは、私にとって、天地がひっくり返るほどの大転換でした。死んでも魂は別の次元へ行くのであれば、安心して現在を生きることができると思いました。

 通っていた教会の先輩たちは、聖書に関しての話しはしていましたが、霊的な現象や開運などのスピリチュアル的な話しはほとんどしていませんでした。従って霊的で予言的な内容の多い「ヨハネの黙示録」には関心がなかったようで、話題になったことはありませんでした。

■  理論や理屈では魂には響かない

高校時代は、三木清や、カント、ヘーゲル、マルクスなどの哲学書をよく読みました。人生の目的やこの世の真実について知りたかったのです。ところが、いくら哲学書を読んでも、深く理解することはできませんでしたし、本当のことは掴めませんでした。

聖書を通してイエス・キリストの歩みを見ると、目の見えない人を奇跡のパワーで治したり、遊女のマグダラのマリアを大事にしたりと、誰にでも分け隔てなく接しました。

イエスが生きたていた当時のユダヤ地方は、ローマ帝国の影響下にありました。ユダヤではパリサイ人びとという律法学者が政治を司っていました。自分たちの保身ばかり考えるパリサイ人により多くの平民は苦しんでいました。

それをイエスは批判したのですが、一向に直す気配のはいパリサイ人にイエスはとうとう切れて、「偽善なるパリサイ人たちよ、あなたがたはわざわいである。」と言いました。

哲学は学問として構築されたものなので、それをいくら読んだところで、魂にはまったく響きませんでした。ところが、実際に捨て身で頑張るイエスの行動には、とても感動しました。理論ではなく、実体験しか響かないことを実感しました。

いくらいいことを言っても、魂には響きません。要は、結果にすべてが現れるということだと思いました。

つづく