昨年2冊目の本「宇宙訳日月神示」を出版しました。
農業や魂導密法修法会、日月神示などについて書いていますので、一部をご紹介したいと思います。


■  根気がなく飽きっぽい性格

 1956年7月、群馬県伊勢崎市で、長男として生まれました。祖父母と両親、妹の6人家族でした。父は家電製品の技術者として電気店に勤めていました。母は自宅で洋裁の仕事をしていました。子煩悩な父と、明るくやさしい母、明治生まれの厳しい祖母に育てられました。祖父は父以上にやさしく、私が泣いて帰ると、誰にいじめられたのだ、と言って大変な剣幕だったそうです。自分で転んで泣いて帰ったのが真相でしたが、誰かにいじめられたのではないかと勘違いしたのです。近所の人からは、皮肉を込めて、天皇陛下の子と言われ、笑われていたそうです。

かなり甘やかされて育ったので、わがままなところもあったようですが、友だちとはうまくやっていました。小学校の通知表に書かれている評価を見ると、「誰とでも仲良くでき、明るいが、根気がなく、飽きやすい」とありました。6年間、ほとんど同じ評価でした。何にでも興味を示すが、すぐに飽きてしまう子供でした。

友だちはたくさんいたので、放課後は毎日かくれんぼや鬼ごっこなどで遊んでいました。夏場は午後7時まで外で遊んでいて、よく母が呼びにきたものでした。小学校時代は楽しく過ごしていました。

ただ、生まれつき肉類が好きではなく、学校の給食ではとても苦労しました。当時は肉を残すと、食べるまで居残りさせられました。そういうこともあり、余計に肉類が嫌いになりました。大人になるにつれて、餃子など肉の味が強くないものは食べられるようになりました。

高学年の道徳の時間で、悩みについて学ぶことがありました。同級生はいろいろな悩みを発表していましたが、私にはこれといって困っていることもなく、悩みの意味がよくわからなかったことを覚えています。今思えば、ずいぶんと幸せな子供だったと思います。

■  アマチュア無線に熱中した小学校時代

 父は群馬県前橋市の電気店に、技術者として勤務していましたが、趣味でラジオやステレオのアンプなどを製作していました。それをいつも見ていた私は、自分でもラジオを作ってみたくなり、父に教わることにしました。

まずは配線図について説明してもらいました。小学校4年生でしたが、不思議なことに真空管やコンデンサー、抵抗などの記号をすぐに覚えることができました。2週間ほどすると、自分で配線図を見て、半田ごてや手動のドリルなどを使い、ラジオを組み立てることができるようになりました。

ただ、ショートしている部分があったので、本番では動作しませんでした。父にテスターで不具合箇所を調べてもらい、何とか完成しました。自分で組み立てたラジオから音が流れてきた時は、本当に嬉しかったです。

小学校6年になると、アマチュア無線をやってみたいと思うようになりました。受信機や送信機を製作して、全世界の人々と話しができたらどんなにか楽しいだろうと夢が膨らみました。

ただ、小学生では国家試験の電話級初級アマチュア無線技士の試験は、合格しないだろうと言われていました。父からも試験は難しいと言われましたが、どうしてもアマチュア無線がしたいので、試験勉強をやってみたいとお願いしました。こうしてアマチュア無線の勉強を毎日することになりました。根気がなく飽きっぽい性格でしたが、4か月ほどテキストを勉強しました。計算問題や電波法など難しい問題もあったので、無理かなと思っていましたが、運の良いことに合格の通知が届きました。これは本当に嬉しかったです。

その後、送信機や受信機などを手作りし、自宅の屋根にアンテナを張りました。私のコールサインは、JR1BLZでした。「ハロー、CQ、CQ。こちらはJR1BLZ。どうぞ!」と送信機で電波を飛ばすと、それを聞いた方から、「JR1BLZ、こちらはJA1〇〇〇、どうぞ!」と返事が来ます。携帯電話とは違い、オープンに電波を飛ばすので、誰から返事が来るか分からないところが、エキサイティングでした。日本全国、いろいろな方とお話しができました。当時小学生はほとんどいなかったので、通信相手の大人の方たちはビックリしていました。

■  頼まれたら断れない性格

子供の頃から、頼まれたら断れない性格でした。私の両親が頼まれたら断らない人だったことが影響していると思います。それと、小学校1年生のころだったと思いますが、夢を見ました。

漆黒の空間に一人で浮遊していました。そこが宇宙だということはすぐに分かりました。しばらく浮きながら流れていると、声が聞こえました。

「何でもできる男」

朝起きてもハッキリと覚えていたので、実際に宇宙へ行っていたのだと思います。その夢は、今でも昨日ことのように覚えています。これは両親にも家内や友だちにも話したことはありません。

それ以降、人が何を欲しているのかが、何となく分かるようになりました。この友だちはこうしてほしいんだなと感じるのです。

友だちの希望に沿うことをやると、友だちが喜んでくれるので、それが嬉しかったことを覚えています。そして、友だちからの頼みを断われば、友だちががっかりすることが分かるので、その依頼を受けていました。頼まれたら断れない性格は、この不思議な体験から来ているのかもしれません。

小学校4年生のころ、ビー玉が流行っていました。私は500個くらい集めて、遊んでいましたが、事情があって、あまりビー玉を買えない友だちが、私のビー玉を見て、とても羨ましそうにしていました。私は、500個のビー玉をすべてその子にあげました。その子はビックリすると同時に目を輝かせて喜んでくれました。それを見た、私もとても嬉しくなりました。母親には、全部あげなくてもいいのにと、叱られましたが、父親は笑っていました。

高校2年の時、友だちが家に遊びにきました。二人でラジオから流れる音楽を聴いていたところ、友だちはラジオを持っていないことを知りました。私はラジオを友だちにあげました。友だちはビックリして、そして喜んでくれました。



 つづく・・・